いつも近くで 


『晴れてたら たまには 怪我をせず 帰るよ。』

 はたけカカシという人物は、掴みどころが無い。この意見に、過去、元生徒達は深く同意を示してくれた。今日届いた手紙を見ながら、イルカはぼんやりと、そんな懐かしい記憶を思い出した。
 ポストに入っていた一通の手紙。差し出した場所が分かる、正規の手続きを経て届いた手紙は、任務が終わったからこそ出せたものだ。匂いをかぐと、僅かに塩の香りがした。
『今回行く場所はね、塩の湖があるんですよ』
 そう言っていたことを思い出す。
 眠いというのにそんなことを言われたので、取り留めなく塩の湖がある場所はどんなところか想像してしまった。いや、実際にお互いくだらない想像を口に出していた。――そう。途中でお互いむきになり、くだらない議論にまで展開した程度は白熱してしまった。
(だって、あの人が絶対に寂れた何もない大地で、でかい岩がごつごつしているなんて言うから)
 そんな場所だと思わなかった。
 イルカの脳裏には、緑がまず広がった。緑緑緑。だが、その湖の側にはあまり緑が無い。それでも、きっと少し変わった形の特殊な植物があり、太い木が存在している。そんな気がしていた。
『それなら、普通の湖と変わらないじゃないですか』
『だから、変わった植物があるって言ったんです』
『想像力ないなぁ』
『ありますよっ。それに根拠もあるんですよ! だってもし、その地域の水がですね――』
 夜中の二時過ぎにいい年をした男がする話ではない。
 しかし、せっかくその地から手紙を出してくれたなら結果を教えてくれればいいのにと思う。皺のよった紙をみながら、イルカはひとまず自分が想像している『湖』の側に立っているカカシを想像した。
 イルカは、カカシの任務中の姿を見たことはほとんどない。
 だが、酷く真面目だと皆は言う。
(あんまり、真面目なカカシさんって想像つかないんだけどなぁ)
 上忍のくせに細かい家の仕事が好きで、よく台所に立ったり、食材を買い込んできたりする。面白がって洗濯をしたりもする。
 イルカはそういったことは好きではないので、カカシの好きにさせている。というか、してもらっている。
(よく考えりゃ、上忍にそんなことしてもらっている中忍ってのは俺くらいだろうねぇ)
 イルカだって、最初は遠慮をした。恐縮もした。止めてくれと怒りもした。
 だが、カカシが好きだというのならしょうがない。自分も好きで、何もやらないのだ。
 早く死ぬつもりはない。だが、命に限りがあるのも、また失う機会が多い仕事をしているのも事実だ。
『だから、俺は好きなことしかしたくないんです』
 飲み屋でそう最初に告げたとき、カカシは少し驚いた後、照れたように笑った。それは、まだ交流が始まったばかりの頃だったかもしれない。なぜならカカシが、その後に言ったからだ。
『よかった。じゃあ俺は好かれているんですね』
『あたりまえですよ。俺は嫌いな奴とは飲みに行くほど暇じゃありません』
『うん、それは聞いていました。けど、先生に好かれていると思うと嬉しいなぁ』
 好かれている。
 改めて聞かされると妙に気恥ずかしい単語だ。否定しようと思ったが、強く否定するのも大人気ない。しかもにこにこと、どこか嬉しそうにされていればなお更だ。
(まぁいっか)
 それでこの人が嬉しいなら。
 そんなことを考えながら頼んだ酒を飲む。隣に座る男からは、僅かに血の匂いがする。今日もカカシは外の任務に出ていた。どんな任務かは興味もないし、血の匂いも気にならない。だが、喜んだ顔をしている男に、その血の匂いはどこか違和感を持った。
 ふとその匂いが近づく。
 あ、と思ったときにはカカシの顔が酷く近くにあった。カカシと至近距離で目が合う。飲み屋の喧騒が急に遠いた。たった一瞬で、まるで違う場所に連れてこられてしまった気がした。
 カカシの瞳は深く静かで、まるで名高い湖のように、とても綺麗だった。里でも有名な写輪眼は隠されているというのに、それ以上にイルカは魅力的なものではないかと思う。
「っ」
 温かいものに唇を舐められた。
 それにただ驚いて少し顔を離す。少しだけ男が笑う。その顔を見て、イルカはカカシに唇を舐められたことを理解した。
 笑った顔に何故か悔しさを感じ、頭突きをすると、カカシの口が今度ははっきりとした弧を描く。そしてそのまま、深く口付けられた。いきなりだ。本当にいきなりだ。
「むん…っ」
 飲み屋で、カウンターで端の方だとか色々なことが浮かぶが、熱い舌が口内を我が物顔で動くと全てが些細なことの気がした。カカシは何かを探している。
(何を?)
 舌を、舐められて嬲られて噛まれて撫でられて、口が離れる。イルカは体が妙に熱いと思った。
(俺は、なんで)
 されるがままなのだろうか。
 目の前の男が好きなのか。そう、好きだ。好きだけれどそういう好きではない。
 ――と、少し前まで思っていた。いや、今も思っているはずだ。だが、それすら遠いところにあり、どうでもいい気がした。
 カカシの顔は、気が付けばまた離れていた。その顔を見ながら、イルカは自分の舌の動きを確かめるように、緩慢な動きで酒を一口飲んだ。
 まだ口に残る生暖かい感触。嫌悪はなく、膜に包まれたようなぼんやりとした感覚が全体に行き渡っている。
 カカシの手が、今度は自分の手を握り締める。
 その瞬間、イルカはその全身に張られていた膜が破れ、全ての感覚が生々しいほど蘇り、己の顔に血が集まるのを感じた。
 握り締められている。手を。固い手が。そしてまるで大切なものを慈しむように、ゆっくりと指先で撫でる。指先が、そっと動く。
 死ぬかと思った。
 里内にいて、まさかこんなに本気でそんなことを思う日が来るとは思わなかった。
「っ、カ、カカシ、さんっ!」
「はい?」
 言葉が出ない。何を言いたいのだろうか。
 そう、言うならば今の気持ちを伝えるしかない。イルカ自身どうしたいのか、さっぱり分からないのだ。だから、叫んだ。ただ気持ちのままに。
「死にそうです」
「なんで?」
 なんで、といわれてもそれが分かれば苦労しない。カカシは掴みどころが無い。だが、自分はこんなにも簡単に、カカシに捕まっている。
「手を、握られてるからっ」
 悲鳴のように叫べばカカシは楽しそうに笑った。声を出して。
「それじゃあ、あんた、毎日死ぬじゃないですか。子供達に、よく握られるでしょう」
「そうですけど! 死なないですけど! 今は死ぬんです!」
 カカシがお愛想、と立ち上がる。手が離れる。それにほっと息をついた。
 塩の香りがする。見ると、魚を焼くのか、カウンターの中の男が塩を手に取り振り掛けているところだった。
 塩の香り。どこか懐かしい気がする香り。
「イルカさん」
 外に出ると名前を呼ばれた。
「俺、あなたと一緒に居たいの」
「え」
 今一緒に居る。そう思って変な声が出た。
「だから、手を繋いだの」
 カカシの顔も僅かに赤い気がしたが、その瞳がまっすぐに自分を見ている。それが、イルカにとって一番強烈だった。ふらっと体が近づく。
 血の匂い。そしてその奥に少しだけある汗の匂い。隠された塩の匂い。
 人の匂い。生きている匂い。
(ああ、だから)
 イルカはそこまで思い出して、思考を止めた。塩の湖。塩の香りのする手紙。それに繋がった記憶。
 その後イルカがその手に何をされたかなんて簡単だ。今考えれば遊ばれていたとも思える状況だ。だが、それならイルカはそれが嫌だと思った時点で相手を殴るなり蹴るなり好きにすればいいと思った。
 その相手と、もう一緒に居て三年以上たつ。
 未だに、カカシはどこか未知数だ。そしてカカシは未だに一緒に居たいと思ってくれているのだろう。だから、カカシはこの部屋に居る。そして自分もこの部屋に居る。
『俺はね、罠を張ったの』
『罠?』
『そ。あんたが早く釣れるように、罠をはったのよ』
 その罠をカカシは未だに教えてくれない。
 今、手元にある一枚の手紙。
「これも、またあんたの罠なのかよ」
 呟いて、笑いが漏れる。男から手紙がきてよかった。男が無事でよかった。だから、後はこの暗号のような文章を読みとき、返事を書くのみ。
(あの人は、本当にこういうことが好きだ)
 どうでもいいこと。
 だが、一人では浮かばないどうでもいいことだ。それをカカシはきっと好きなのだ。命に限りがあることを感じているというのに、意味もないことが好き。どうでもいいことが好き。矛盾しているようで、矛盾していないような、どうでもいいことが浮かんでは消える。
 ふと、それが弾けるように一つの答えが思いついた。
 イルカは部屋に戻り、ペンを取る。
『帰ってきたら したいことがあります』
 平たく言えばただカカシの誕生日を祝うだけだ。だがこう書くしかない。きっとあの男は『して』とか、そんな言葉を使わせたかったのだろう。
(『は た け か』、ときたら、俺が使えるのは『か』と『し』しかないじゃねぇか)
 誕生日にほしいものを考えておいてくださいよ、と言った。カカシが任務に旅立つ前に。
 晴れていて、本当にカカシが怪我をしていなかったのなら、カカシが帰ってきしだい、たまには襲うように誘ってみるのもいいかもしれない。きっとそんなくだらないことを、あの男は望んでいるのだ。
(馬鹿だよなぁ、俺ら)
 馬鹿だが、普段真面目に生きているのだ。真面目すぎるほど、お互い真面目なのだ。だから、たまにはいいじゃないかと言い訳をする自分にまた笑う。
 カカシがいたら、きっとこんなくだらない考えも、あっという間に吹き飛んでしまう。
「ま、今のうちにせいぜい真面目に生きるとしますか」
 今日の任務はこれからだ。
 身支度をして部屋の扉をあける。眩しい光に目を細め、息を吸った。
 僅かにだが、どこからか塩の香りがしたような気がした。













こういう雰囲気の話は書きやすい。
想像すると楽しいのです。笑