俺のせいじゃない!


「あとはこれを火影様に…か」
 今日付で処理をした報告書の中から、火影への連絡事項を簡単にまとめたものを手にし、イルカは席を立った。今日は色々と緊急の任務が多く入り、調整に時間が取られ、気が付けばかなりの残業だ。早番で朝方からの出勤にも関わらず、周囲はかなり深い闇に覆われている。
(さすがにこの時間じゃ、鬱陶しいやつらもいないか)
 イルカはこれから暫く敢えて残業をしようかと真剣に考える。細かい嫌がらせで何かを思うほど繊細な人間ではないが、苛々することは少ないに越したことがない。
 カカシはあの日以来、なんだかんだ毎日職場を覗きに来る。気づけば鬱陶しく逃げられるので、最近はもはや敢えて知らない振りをしている。
(そして、俺は『上忍に護衛をやらせてる嫌な中忍』となるわけだ)
 アホらしい、とイルカは息を吐いた。
『よーするにさ、はたけ上忍も本当は大したことなかったんじゃねぇの』
 今日のイルカには痣がある。理由はむかついたから、手が出てしまった。そして喧嘩になった。それだけだ。いわゆるアカデミーの子供達と変わらないレベルの喧嘩で、可愛くないのは、お互いの腕っ節くらいだだ。
(つーか、あの人の功績を見て、よく言える。いくら孤高の憧れ人が俺と付き合いがあるからって――)
 思い出しても未だに腹が立つ。本当にはたけカカシが絡むと苛々することばかりだ。
「ああ、イルカ先生。お久しぶりですね」
「こんな時間にすみません。火影様は?」
 火影の館に行くと、立っていたのはイルカと顔見知りの門番だ。遅い時間だったが、火影はまだ自室で仕事をしていると教えられた。
「まだお目通りもできますよ」
 さほど緊急ではないため預けて帰る予定だった。
(そうだなぁ)
 勧められた言葉に、考えてみれば火影とはあの日以来話をしていない。
(カカシ先生への態度を注意されたのが最後ってのもな)
 カカシがどんな性格だろうと、彼は確かに上忍で里のために、かなり貢献をしてくれている。実力もあり、自分があんなふうにポンポン怒鳴ったり、殴っていい相手ではないことは確かだ。
 たとえ相手が懐いてくれたり、何故か自分のことを好きだといっているとしてもだ。
「……じゃあ、お言葉に甘えてもいいですか」
「どうぞ。では取次ぎますね」
 門番のうち一人の姿がその場から消える。それをぼんやりと見ながら、イルカは今日殴られた場所をそっと撫でた。
(そうなんだよなぁ…)
 カカシは何故か自分を好きだと言った。
 好かれるるような態度など、出会った日ときから何一つとった覚えは無い。それでもカカシは純粋に、本当に自分のことを好きだと全身で言っている。それが何故なのかイルカには分からない。更に、きっぱり一度は断ってもいる。それなのに、何故か関係は変わることなく、そして未だに一身にカカシの好意を受けているのだ。
(これ以上俺にどうしろと)
 里の全員の持っているイメージを覆すような男だったが、イルカは今のカカシの方が好感を持っている。情けなくて脱力するときもあるが、優しくて、人らしい男だ。ただ、それが恋愛感情なのかと言われれば、違うと思う。今までイルカが他人に持った恋愛感情とは全く似ても似つかない。
(端的にいえば、苛々する。あと心臓が痛い)
 それがカカシに持っている感情だ。
 この問題を考えるだけで、イルカは妙に苛々としてくる。男に好かれるだとか、そういったこと以前に、イルカの中では何かがしっくりこない。そのしっくりこない感覚は、時にイルカの胸に鋭い痛みをよこす。
「奥のお部屋にお願いします」
 イルカは通された部屋に近づく前に、気持ちを落ち着けるために数度深呼吸をした。そのまま一度すっと気配も消す。気配も消すと体が引き締まった気がする。
 そのまま部屋前まで行き、扉をノックしようとしたとき中から聞こえた話し声に足を止めた。
「だから、おぬしは喋らないでいいと言っておるだろうが…」
 疲れたような火影の声。間違いなく相手はカカシだとイルカにはわかる会話内容だった。
 火影は多分イルカの存在に気がついているだろう。カカシもだ。
 ただその会話は、イルカが聞く分には何の問題もなく、またいつも通りの会話であったため、隠されなかった。それだけだ。
 だが、その自然な態度が、イルカの本能を刺激する。
 指先が痺れた。
『よーするにさ、はたけ上忍も本当は大したことなかったんじゃねぇの』
 誰かが囁いた言葉が蘇る。
 周囲に最終的に止められた喧嘩は不完全燃焼で、イルカは最後に怒鳴った。
『お前ら、そう言うならあの人の前で言ってみろよ!』
『そりゃ、おめぇだろ。上手く取り入りやがってよぉっ』
『俺は、言いたいことがあれば、上忍だろうが、火影様だろうが、絶対に言う! 我慢しなければならないと思ったとき以外はな』
 自分の言葉が頭に響く。
 だが、それ以上に火影の言葉が頭に響く。
「ほら。お菓子をやるから、もう少し黙ってがんばれ」
 火影の言葉を引き金に、イルカは気づいたら襖を勢いよく開けていた。
「イルカ!?」
 パーンと小気味よい音をたてて襖が開き、イルカはつかつかと二人に歩みよる。カカシはぱぁっと顔を明るくする。そのままイルカはカカシに近づき胸倉をつかみ、思い切りビンタをした。
「あうっ」
 そしてカカシのポケットに手をつっこみ、入ったままの菓子を取り出し窓から思い切り遠くに投げ捨てた。
「あ、あああ!」
 カカシが悲壮な声をあげる。
 声をあげたカカシをイルカはぎっと睨みつける。その迫力に押され、カカシはすぐに黙り込み姿勢をぴっと正した。
「怒ればいいだろ…」
「え?」
「怒れよ! 俺を怒ればいいだろう! 飴とか菓子とかで口を塞いでないで…あんたは、あんたは」
 カカシが長期任務から帰ってきて以来、ずっと胸のうちに何かがたまっていた。痛みの原因は、この溜まっていたものだ。
 好きとか、恋愛感情とか、そんな優しい感情とは程遠い。イルカの心を痛めるもの。
 突然いなくなったカカシ。子供のように純粋な男を自分が傷つけたのかと色々と柄にもなく反省をした。
 戻ってきて、ぼろぼろ涙をこぼし過去のことを話してくれたカカシ。不器用で、子供そのもので、上手く他人と関われて居ないカカシ。
(ちくしょう)
 色々悔しくてイルカはじわりと涙がにじむ。
 可哀想だとも思った。だが、それ以上に腹が立ってたまらない。
「ちゃんと、考えろ! しゃべろ! あんたは、口があるんだろうっ」
「っ」
「ふわふわ夢の中を生きるなっ。あんたは、今この世界を生きてるんだ!」
 もう一発こぶしで殴るとカカシの体が吹き飛んだ。そのままぐるりとイルカは火影を振り向く。資料を差し出したあと、ガバリとその場に土下座をした。
「上忍の方を殴りました。不敬罪で投獄してください」
 呆然としていた火影がイルカの言葉に我にかえる。
「おぬし」
「投獄してくださいと言っているんです。投獄してくださらないなら、外に俺はことの顛末を言いにいきます」
 後ろでカカシが起き上がる気配がする。
「火影様もいったでしょう。俺にもっと立場をわきまえろと。カカシ上忍と俺は、確かに立場が違い――ぐおっ!」
 喋っている途中で腰にものすごい衝撃を感じた。油断をしていたが、どうやらカカシに腰に飛びつかれたらしいと、倒れこんでから気づく。
「ちょ、あんた…っ」
 カカシは何も言わず、ぎゅうっとイルカの腰を抱きしめている。
「なんで」
「え?」
「なんで、イルカ先生にそんなことを言ったんですか」
 カカシの言葉はイルカに向けたものではなかった。その言葉は火影に向けられている。
「…おぬしも分かるだろう。おぬしは上忍。イルカは中忍。人前では守らねばならぬ階級がある」
「俺は、そんなものどうでもいいのに」
「おぬしがよくてもだ」
「俺は、そんな階級なんて本当にどうでもいいと思ってるんです!」
 カカシが真剣に声を荒げた。そのことにイルカも火影も驚いて動きを止める。
「死に掛けて、俺は気づきました。階級差による差別に意味が無いことも、死を前にして皆が異常なほどそれを恐れないようにしている不自然さも」
「カカシ」
「だって、怖いものは怖いんですよ。死や戦いを前にして、怖くないってそれの方がおかしいんですよ!」
「カカシ!」
「…すみません」
 それからカカシは体を起こし、イルカの体も引き上げた。
 突然カカシの顔から血の気が引いていく。それは、どこか不自然な唐突さでイルカが声をかけようとする前に、火影がそばにあった飴を取り出す。
「馬鹿者が。さっさと食え」
「う…」
「いいから食っておけ」
 火影が疲れたようにカカシの口布をさげ、飴玉を口につっこむ。ため息を一つついて、火影はイルカを見る。
「…こやつは、甘味がないと生きていけんのだ」
「え」
「色々障害を持っておってな。とある事件以降、糖分摂取が常に必要での」
 火影が嘘をつくはずはなかった。
 イルカはカカシの顔を見る。カカシの顔色はあっという間に元に戻る。脳裏に、雪山で遭難していた子供の姿が浮かぶ。寒い中、きっとろくな食料もなくただすごした日々。
(まただ)
 何度も甘いものばかりとるなと怒鳴った自分に、カカシは何も言わなかった。
「……やっぱり、あんたは肝心なことは何も言わない」
 好きだといわれても、それはイルカが思っていたような重さはきっともっていなかった。だからあんなにも簡単に、あの状態で長期任務に出てしまえたのだ。
(そう、か)
 イルカは自分の苛々したものや、痛みがどこからくるのかを突然ストンと理解した。
 全てが、どこか全てのものが、この男にとっては重みがない。あるのかもしれないが、無いようにしか見えない。
 好きとか、そんな言葉以前のそれに、自分は腹がたってしょうがなかったのだ。
 そんな、軽い言葉を、自分の重さを持った言葉や感情で受け取ることなど不可能だ。
 分かり合えない人間同士。
 そんな何かの本で読んだような言葉が頭に浮かぶ。
「けど、俺は言います!」
 イルカはきっと顔をあげ宣言する。
「どんなに自分が傷ついても、俺は言いたいことを言う! 俺は毎日必死に生きてるんですから、言いたいことを言って、出来ることをやる! 傷ついても痛くても、復活するからいいんですっ」
 イルカはカカシの胸倉をつかむ。
 顔を近づけて言う。
(ああ、不本意だ)
 何故自分がこうなったのか。だが、気づいてしまったのならしょうがない。
「俺は、結構あんたのことが好きです」
 言ってからぱっと手を離す。優しくも甘くもないけれど、きっとこの胸の痛みが、自分を苛立たせるものは十分その感情だ。だが、カカシの軽い言葉を受け取る気などは、さらさら無い。自分と同じ重さまで、その言葉に深みがでないのなら、受け取る気など全く無い。
 そして火影をもう一度見る。
「投獄してください」
「え、いや。まておぬしら…」
「イ、イルカ先生。いいいいいい、今いまいま!」
「投獄してください!」
「や、だからイルカよ。おぬしらは、」
「火影様、投獄なんてしないですよねっ」
「だからおぬしらは…!」
「投獄!」
「結婚してください!」
 大混乱としか言いようが無いその場を収めたのは、銀髪の男のとてつもない阿呆な一言だった。一瞬静まり返ったその場で、我にかえったイルカは思い切り、腹の底から叫ぶ。
「できるか阿呆っ!」
「なんでですかっ。いいって言ってくれるまで…俺は離れません!」
「離れろ!」
「なんで!」
「こっちがなんでだっ!」
 カカシはイルカの腰に再びタックルをかます。
「俺は、俺はこれからがんばるから。だから、先生お願いだから見捨てないでよ。先生が言うように少しずつがんばるから。俺、きっと元に戻って見せますから」
「…別に、誰もそうはいってないですよ。ただ、俺はあんたがもっと、ちゃんと自分の本当の意見を言えばいいと」
「おぬしらが仲が良いことだけは、本当によーく分かった」
「はっ」
 その言葉に、イルカは火影の前で全てを、本当に全てを繰り広げていたことを思い出す。
「分かったから、もう続きは外でやれ」
「あ、あの」
「問答無用じゃ」
「火影様…っ」
「カカシは規律というものを、世間というものもちゃんと学べ。染まれとはいわん。理解だけはしろ。イルカは、まぁ人前ではほどほどにしておけ」
 何かイルカがそれに対し言おうとした瞬間、強制的に二人はその場から移転した。場所はイルカの自宅のそばの道路だ。
 深夜に近い時間で、月が綺麗に出ている夜。そんな中、突然外に放り出されたこと、火影の前で大騒ぎをしたこと。二人妙な形にくっついたままなこと。
 全てが妙におかしくて、イルカは思わず笑い出しそうになる。
「…すみません」
 そこでカカシが神妙な声で謝ってくる。
「――俺の、せいですよね」
「何が?」
「色々、全部…」
 カカシがきっと、イルカを取り巻く環境のことも気にしているのだとすぐに分かった。
 ずっと、カカシがカカシなりに気にしていることは、分かっていた。あれだけ見張られれば、普通の人であれば、十分すぎる程伝わってくる。
 そして今も、こうして目の前で明らかに落ち込んでいる。
(本当分かりやすいっていうか)
 イルカは苦笑いをして、道路に開き直ってねっころがった。
「まぁ確かに俺のせいじゃないですね」
「う」
「でも、あんたのせいでもないですよ」
「え」
 イルカは笑って空を見る。
「なんだかもうよく分からないあれでしたけど、楽しかったですね。さっきの言い合い」
 改めて考えると恥ずかしいし、年甲斐もないが、それでもどこか楽しかった。笑えるようなすれ違いに言い合いだった。
 イルカが笑ったせいか、カカシが息を呑んだのが伝わってくる。そのままイルカの視界にカカシの顔がしっかりと映った。
「俺ね、今の俺なりに本当にイルカ先生が好きなんです。信じてもらえないのかも…しれないけど」
「告白されて、何も期待されず置いていかれる程度なら信じませんよ」
「でもずっと好きです!」
「…だから、俺にも何か期待してくださいって言ってるんですよ」
「じゃあ期待します!」
「……」
 毒気を抜かれイルカが黙ると、カカシのうれしそうに笑う顔が近づいてくる。
(まぁいいか)
 もう何がなんなのか訳も分からない。でもわけが分からないくらいでちょうどいいのかもしれない。
 イルカは目を瞑る。生暖かいものが唇に触れる。
 さっきは、俺のせいじゃないと言い切った。だが、これから始まる未来は間違いなく自分のせいだ。自分が選んだことで、叫んだことで、少しだけ変わった未来が待っている。
(腹をくくるか)
 きっとこれから何度も苛々して、悔しい思いもして、納得できないことも沢山あるだろう。
 それでも、当分の間はこの男と共にいようと思った。それが、きっと楽しく、正しい選択だ。
「だからっ、調子に乗るなっ」
 食いついてくる男の頭を思い切りイルカは殴り飛ばす。選んだとはいえ、今のカカシにどうこうされる気はさらさら無いのだ。
「あうっ」
「誰が、あなたと付き合うと言いましたか」
「う、う…っ」
「…あなたが、言葉の重みをちゃんと理解したら、付き合いましょう。それまでは付き合いませんよ。そういう意味では」
「え、ちょ。ま、まって! 先生、今なんてっ」
 さっさと歩き出すと、後ろから慌てた声がついてくる。イルカはその声を聞きながら、自宅までの道を軽い足取りで歩いていった。