俺のせいじゃない!


「見物者が少なかったからよかったものの…おぬしも行動には注意が必要じゃの」
「…失礼致しました」
「――がいくらこんなだからといっても、おぬしが分をわきまえないでいい訳ではない」
「……わかっております」
 頭の上で聞こえる会話に、カカシはうっすらと目をあけた。最初に見えたのは薄汚れた白い天井。その次に火影とイルカの姿だった。
「あれ、火影様?」
「目が覚めたか」
「はい」
 ゆっくりと上半身を起こすと頭からタオルが落ちた。
「体の調子はどうじゃ?」
「全く問題はありません。一応、向うで少し休んでから戻ってきましたので」
「…ぼろは出してないじゃろうな」
「はい! 甘いものはぱっくんに買ってきてもらいました」
「……ばればれな気がするが…、まぁよい」
 火影はゆっくりと立ち上がる。カカシは何かが胸の奥でちくちくとしていたが、それが何なのかすぐには思い当たらない。
 視界の中でイルカと火影が映る。そこに何か理由がある気がしたのだが、上手くまとまらないうちに視界から消えようとしていた火影が懐から袋を取り出した。
「ひとまず、暫くはゆっくりせい。…ほら。そろそろ無くなるじゃろう」
「あ! ありがとうございます。やった! これ、『うさぎ屋本舗』の『白い小判』じゃないですか!」
「…とうとう匂いで分かるようになったか」
「当然ですよ!」
 わーと満面の笑みでカカシは飴を受け取る。退室する火影を見送った後、ベットにもどりこしかけ、一応イルカにも聞いてみた。
「先生、食べますか?」
「…結構です」
「じゃあ、俺だけ貰いますね」
 2,3粒取り出し、白く練られた水あめの塊を口に放り込む。美味しさに顔が緩むと、イルカの眉がピクリと動いた気がした。
(あ、そうだ。イルカ先生は甘いものがダメなんだっけ)
 カカシは口の中で至福の味を転がしながら、思い出す。
「……」
「……」
 珍しくイルカが黙ってい、飴を舐めているカカシはなんとなく調子が狂う。いつもならここで注意の一つや二つを貰っているはずだ。
(体調悪いのかな? あれ、でもイルカ先生少し痩せた、かな…?)
 顔は下を向かれ隠されているがその首筋が少し細く見える。
 思わず手を伸ばしてその首筋に触れると、ばっと顔をあげられた。その顔は、困惑したような怒っているような、泣き出しそうなよく分からない表情で、カカシの動きも止まってしまう。
 自分はいつもと同じだ。やはり同じでないのは、イルカの態度だ。
「あんたが…」
 呻くような声と共に、ぐっと爪が食い込むほどきつくイルカが己の手を握る。
「あんなことを言った後に、姿を消して、普通に戻ってくるから」
「あんなこと?」
「…忘れたら殺しますよ」
 低く突き刺さるような殺気に、カカシは慌てて最後の日を思い出す。
「え、えっと尊敬する人のインタビューですか」
「違う!」
「えっと、あ。やっぱり『美吉の』のカステラ食べた――」
「違う! あんたが、俺を好きと言ったんだろ!」
 言われてカカシはポンと手を叩く。
「そうでした。つい、口に出ちゃったんですよね」
 ははと笑うと、拳が繰り出されるがそれはさすがに咄嗟によけた。
「普通に考えてみろっ。あんたがあんなこといって、俺がいくら断ったとはいえ、いきなり姿を消してみろ。普通はどう思うか…!」
「え。俺全然ショックも受けてませんでしたよ。最初から片思いだって分かってますもん! 先生もてそうですからね」
「……っ」
 ぐっとイルカは拳を固めると、ガンとカカシの太ももを叩いた。骨に響くその振動にカカシは悶えるが、イルカの瞳に涙が滲んでいることに完全に神経を持っていかれた。
(な、泣いてる!?)
 あのイルカが。
 あのイルカが泣いているのだ。
「守秘義務があるってことは分かっています。普段はベラベラ任務に行くだのいつ帰るだの喋ってますけど、分かってはいます。けど! あんたはあんたの言葉の重要さを、ちゃんと理解するべきだ。写輪眼のカカシとしてではなくて、はたけカカシとしての…!」
 イルカはうるむ瞳で、だがぎっとカカシを睨みつける。
 カカシはイルカの言葉をただ呆然と聞く。イルカは泣くほど、そして痩せてしまうほど、真剣に自分に言葉を受け取っていてくれたことを理解したのだ。
(あ)
 里が見えたときに純粋にただ喜んでいた。
 生きて帰れてよかったーと思っていた。だが、何かそれ以上に重いものが、ずしりと腹の底にきた。
(あ、ああ)
 イルカは、こんなにもしっかりと自分のことを考えていてくれたのだ。
「…って、なんであんたが泣くんですか」
 イルカの声に、カカシは自分が涙をこぼしていることを知った。
「い、いえ感動してしまって」
「はぁ?」
 涙はだーだーと勢いよく落ちていく。邪魔になり口布を外すと、イルカがその仕草にビクリと体を震わした。
「やっぱり、俺イルカ先生が大好きです」
「…言葉の責任も取れない人に言われたくありません」
「えっと、それはこれから、少しずつでも頑張ります」
「…頑張ってどうにかなるんですか」
「なるはずです!」
 カカシは言い切ってから、少し思い出す。
 自分は、多分イルカが言うような人間になれるはずだ。その感覚を、本当はちゃんと知っている。そんな気が体の奥底からわきあがる。
(そうだ。だって、俺は――)
「俺、昔は多分もっとちゃんとしていたんです」
「え?」
 イルカは完全に涙を止めていたが、一度泣き出したカカシはなかなか止まらない。
「昔、冬の雪山に一人残されたことがあって。子供の頃なんですけど、そこで三ヶ月過ごして、その後動物と一緒にいるところを、暗部に保護されたんです」
 あれはいつの頃だったか。オビトがいなくなり、リンも里を出たころだったか。
 毎日続く白い景色。
 同化した世界。
 全ての感覚は遠くにあり、恐ろしく綺麗でシンプルな世界。
「あんまり記憶は無いんですけど、火影様曰く。それ以来なんか俺少し変になってしまったみたいなんですよね」
 喋りながらまだ涙は止まらない。笑っているのに涙は止まらない。
 悲しい話など何一つしていないはずだ。泣くような話もしていない。わざわざ今話す話でもないし、何故自分がこんなことを話しているのかさっぱり分からない。
 最近だと山神信仰の土地を追いかけられたときが一番泣いた。
(でも)
 怖いというならば、無理やり借り出されている任務の方がぜんぜん怖いし、今の話には何一つ怖いこともありはしない。
 ただ今はそれらが、普段自分が怖がっているもの達の方が、とても遠くに思える。
(なんだろう)
 この話を口にしたからなのか。妙に感覚が落ち着かない。
 話をすると、あの日の寒さがよみがえりそうで口にするのは嫌だった。あの白い場所で膝を抱えてただひたすら座り続けていた日々。
 カカシの結論の出ない思考を中断したのは、イルカの言葉だった。
「……でも」
 イルカの瞳はしっかりと自分を見ている。今ここにいる自分を、射抜くほどしっかりと見ている。
 何を言っても、決してイルカは逃げない。
 自分がどんなに情けなくてもイルカは見捨てないことをカカシはよく知っている。
 だから、イルカの続きの言葉をただじっと待った。
「もう、あなたはその時の子供ではないでしょう」
「うん」
 それは当たり前といえば当たり前で、当然の話だった。
 だけれど、誰もが今まで言うこともなかった話だった。
「あなたはもう子供じゃないし、そこからは助けられているんでしょう」
「…うん」
(大きな手、大きな体。成長した技に忍の腕前――)
 一つ一つたどっていく。どこにももう子供の自分の姿など確かになかった。
 イルカの眉が少し寄る。イルカが苦しそうな顔をしていて、カカシは首を少しかしげる。
 イルカはそれからはずっと無言だった。何故突然黙ってしまったのか、カカシにはさっぱり分からない。だが、それならとカカシもただじっとイルカを見る。イルカを見ることは、カカシにとってはとても楽しいことだ。
(あ)
 イルカの瞳も、じっと自分を見ている。
 口を一本に結び、じっとこっちを見ている。黒い瞳。真っ暗い闇はカカシが苦手とするものの一つだったが、イルカの黒さは何故かカカシを安堵させる。静かで穏やかで優しい闇だ。
(いいな)
 これが欲しい。
 怒られるのは怖いし、殴られるのは痛い。それでもそれ以上のものをイルカは持っている。イルカが持っているものを、子供のようだがカカシも欲しいと思う。一緒にたって、一緒に色んなものを見てみたい。
 そして。
「…っ」
 吸い寄せられるようにカカシは思わずイルカに口付けた。
 イルカの体がビクリと震える。軽く口付けて一度顔を離す。呆然としているイルカを見て、カカシはもう一度口付けた。今度は噛み付くように、深く。
(甘い)
 舌を絡める。
(甘い甘い甘い甘い…甘い!)
 この世にこんな甘美なものがあったのかと思うほど、カカシをくらくらさせる味が体中に広がる。ぽっかりあいたものを埋めるように、体の中を優しく満たす。
 生暖かい舌も、触れてくるイルカの手も。
 イルカの首後ろを押さえる手からも、何か甘い喜びに体が満たされる。
「…、あれ?」
 どれくらいそうしていたのか分からないが、突然イルカの体からくたりと力が抜けた。はっと気づけば明らかに酸欠と言わんばかりにイルカの体から力が抜けている。
「イ、イルカ先生っ!」
 慌てて肩をゆすり、むしろ自分の寝ていたベットをイルカに譲る。
 イルカはすぐに我に返ったが、ぎっとカカシを射殺しそうな顔で睨む。
「…あんたは、限度っつーもんを…いや、むしろ同意をとれ! まず!」
「同意がないとダメなんですか?」
「……あんたはそれでいいんですか」
 疲れたようにイルカは呟く。
「なんでもいいです! イルカ先生に触れるなら!」
「………」
 イルカは力尽きたようにベットに突っ伏す。
「あれ? イルカ先生?」
 イルカからの返事はこない。肩をゆすっても何をしても、返事はこない。
(俺、何か今間違えたかな?)
 俺のせいなのか。俺のせいじゃないのか。
 よく分からないが、カカシの出した結論はまぁどっちでもいい、ということだけだ。こうしてイルカの近くにいれて、イルカを触れるならばなんでもいい。
「あ。そうだ」
 カカシはぽんと手を叩いてから、イルカに顔を近づける。
「イルカ先生、ただいま」
「……お帰りなさい」
 それに、イルカは小さな声で、ぶっきらぼうに返してくれる。
「帰ってこれて本当によかったです!」
「…俺は今色々納得いきませんよ。一発殴らせてください。つーか殴られろ。問答無用で!」
「喜んでっ! …でも二発くらいにしてください…」
「ふざけるな。つーか次かってに触ったら殺す」
「ぎゃー!」
 火影が念のためと張っていった結界は、カカシの名誉を守るために大いに役にたったことを、今はまだ火影しか知らないのだった。



 2部完