熱い季節でもないのに、額当ての下に汗が滲んだ。
 顔も熱くなっているのを感じるし、頭の中では「落ち着け落ち着け落ち着け」という単語が、正反対の勢いで飛び交っている。せめてもの救いは、多分熱くなっても顔が赤くならない己の体質のみ。
「はい、大丈夫です」
 かろうじて震えない声をだし、受け取った書類に印をつける。
「ご苦労さまでした」
 告げると、目の前の人物はにこりとした顔を見せて、そして背を向けた。その姿が消えてから、イルカは糸が切れたように机の上に倒れこんだ。
 隣の同僚は、ただ名前の知られてる上忍相手で緊張したのだろうと思っているのか、苦笑いを浮かべながら「お疲れ」なんて言っている。
 違う。そんなんじゃない。あの人はそんなに怖い人でも冷酷な人でもない。だけれどそんな事を言えば、何故自分がこうなるのか理由を言わないといけなくなるので、敢えてイルカは口を閉じ、そして代わりに重いため息をつく。
 何故いえないのだろうか。たった一言なのに。それで全てが終わりになるというのに。
「飲みにいきませんか、か」
 小さく呟いて、よけいイルカは落ち込みたい気分になったが、仕事中と頭を無理やり切り替えて、書類を持ってくる次の人物のため気合を入れなおすのだった


  あいだ  


 その日イルカは、採点と頼まれた書類に追われ、アカデミーを出たのはかなり遅い時間になってからだった。
 だから、一人で戸締りを確認し、そして外へ出た。当然だが、そこにはよほどのことが無い限り人の姿など無い。ましてや今日のような日など、誰の姿もあるはず無い。それなのに。そこに一人の人物が立っていた。
 最初は一度後ろを振り返えった。だが自分以外の人間はここにはいなく、校門によりかかってこっちを見る人物はおそらくそれなら自分に用があるということだった。
 こんばんは、と訝りつつも声をかけるとニコリと立っていた人物、カカシはにこりと笑った。そして、小さな箱を差し出した。
「どうぞ」
 驚きつつも、イルカは渡されたそれと目の前の人物を交互に見る。
「……は?」
 それが正直な偽りの無い言葉だった。
 何故ならイルカの手にあるのは、可愛くラッピングされた小さい箱。何故自分がこんなものを渡されるのかイルカには全く分からなかった。
「よかったら開けてください」
「は、はぁ」
 促されるまま、ラッピングを解く。箱のふたをあけると、優しい香りがした。
「チョコレートですね」
「ええ。チョコレートなんです」
 そこで一瞬沈黙が訪れた。カカシはその後何を言うでもなく、ただ立っていた。イルカといえば頭が混乱して何も言えなかった。
 今日が世間一般で言うバレンタインということは、アカデミーでも大量の義理チョコを貰ったから知っている。残業だって彼女とデートがある奴と変わってやったのだから知っている。
「あ。これ、誰かに渡して欲しいんですか」
「まさか」
 浮かんだ案は即座に否定される。
「イルカ先生にです」
 そう自分に視線を合わせるよう呟いて、カカシの姿は消えた。
 イルカはすぐに動くことができず、誰もいなくなった場所で立ち尽くす。
 今となれば、確認するべきことは沢山あった。あれが本当のカカシ先生だったのか。ただ一杯もらったからおすそ分けをくれたのではないだろうかなど。次の日ナルトたちは「カカシ先生がすっげ美人な女の人から沢山チョコ貰ってた」という話を聞いたからこそ余計そう思った。子ども達はただ信じられないーっと騒いでいただけだったが、それを聞いてイルカは余計頭が混乱した。一体何が本当なのか。
 目的は何なのか。
「真意を読み取れないと、恐ろしい恥じをかくだろ。これは…」
 誰に相談することも出来ず。ただただイルカは赤くなったり、青くなったりと頭を悩ませたが、あれからもう2週間以上たった。カカシは特に何も態度は変わらず、特に自分と会話をすることもない。
 だけれどようやくイルカは1つのことに気づいたのだ。義理チョコをくれた生徒たちに配るお菓子を買いに行っていたときに気づいたのだ。
 カカシ先生には、どうすればいいんだと。
 イルカはとにかくバレンタインやらホワイトデーということは忘れて、純粋にチョコを貰ったお礼としてカカシを飲みに誘うことに決めた。
 そこでおごる。これでいいじゃないかと。


「けど、言えなきゃ意味ないんだよなぁ…」
 大量の受理した書類を抱え、受付を後にしながらイルカは苦い顔をする。自分でも何故あんなにいえないのか不思議なくらいだった。
 その時、イルカの視界に銀色の髪が写った。一本前の通路を横切ろうとしていたのは、大分前に書類を出していったカカシだった。
「カカシ先生!」
 思わず声がでてしまった。だが、続く言葉は見当たらない。
 カカシはペコリ、と軽く挨拶代わりに頭を下げた後、いつもの眠そうな瞳で何も言わないイルカを見つめた。そしてすぐに、ああ、と頷いてイルカに近寄ってきた。
「いいですよ。どこまで持てばいいんですか?」
「え!?あ、え、ちがっ」
 大量に抱えた書類に手を伸ばすカカシから逃げようとした瞬間、バサバサバサッ、と嫌な音とともに書類が廊下に舞い散った。
「………」
「………」
 一瞬二人とも無言になる。その後、くく、っとカカシが可笑しくてたまらないけれど声を出すのは失礼だろうからなんとか押さえてます、と言わんばかりに小さく声を殺し、体を震わせて笑い出す。イルカはめったに赤くならない顔を本当に真っ赤にさせた。
「笑わないで下さいっ!」
「手伝いますよ」
「大丈夫ですっ」
 きっぱり断るが、カカシは笑いながら一緒に廊下にしゃがみ書類を拾う。
 そして結局そのまま、各々が自分で拾った分を持ちながら、歩き出した。目的地は言わなかったが、受理された書類が行き着く先はカカシにもすぐ分かったのかもしれない。
 静かな廊下を歩きながら、イルカは今が恐ろしいチャンスだということに気がついた。
「カカシ先生」
 だから慌てて声をかける。
「はい?」
 自分を見る少し眠そうな瞳。
 途端、あの夜を思い出す。今思えば、あの日カカシは額宛もマスクも取っていなかっただろうか。
 そしてあの日の瞳は、とても眠そうだなんて思えないような強さを持っていなかっただろうか。
「…イルカ先生?」
「あ、は、はい!」
「はい、じゃなくてイルカ先生が何か用あったんでしょ」
「そうです」
 受付けでいつも感じていた熱さが途端に落ち着くのを感じた。ただ、今度は今は心臓が痛いほどの鼓動を刻んでいた。
「あの、お礼もしたいんで、今度飲みに行きませんか」
 何の、とは言えなかった。
「いいですね」
 イルカの誘いにカカシは嬉しそうに笑った。その顔をみてイルカは一気に安心する。
 だけれどカカシは続けた。
「でも、それ混ぜないで下さいね」
「え」
 カカシの足が止まる。イルカもつられるように足をとめた。
 止まったイルカの動きをみて、ドサ、と大量の今までカカシが持っていた分の書類が載せられる。イルカは書類の抱え方を慌てて変える。
 銀色の髪が至近距離に映る。
「返事は、ちゃんと考えてホワイトデーに下さいよ」
 耳元で囁かれた言葉。
 離れた顔を見ると、カカシは再度言葉を口にした。
「返事、ちゃんとくれるんですよね?」
 イルカは言葉も出ずに、だけれどただ促されるまま頷いた。途端、カカシは驚いたように、食いつくようにもう一度口にした。
「!本当ですよ?」
「は、はい」
 カカシの勢いに負け、勢いよく返事をする。カカシはイルカの言葉を聞いてから、嬉しそうに笑った。
 人に脅すように、念をおすように言っておきながら、無邪気そうに喜んで笑う顔にイルカは驚きを隠せずじっと見入った。それに気づいたのか、カカシは少し恥ずかしそうに頬を掻いて視線を泳がせて、「じゃあ」と行って去っていった。気づけば、ここはもう事務室の扉のまん前だった。
「一体俺は何の返事をするんだよ…」
 文句を言うように呟いても、なんとなくはもう何の返事かは分かっていて。分かっていたからこそこんなにずっと悩んで迷って。
 そう思えば、別に自分だとて何かを言われたわけではないのだ。この際マシュマロだけでも突きつけてやろうか。
 そんなことを思った瞬間、再度自分のものではない手が視界に入った。
「ドア開けれませんよね。すみません」
 戻ってきたカカシの腕だった。
 何がすみませんなのか。女じゃないんだから、行儀が悪いが足でだって開けられる。
だけれど戻ってきたこの人に「なんで」とか「何が」とか、という疑問が必要なんだ
ろうか。
「明日」
 カカシの手が、ドアを開ける。
「明日、夜飲みいきましょう」
「明日はホワイトデーじゃありませんよ」
「それはそれです。せっかくなんで、いいんです」
「いいんですか」
 子どものような言い方にイルカは笑いながら頷いた。そして今度こそ本当に、カカシは消えた。
 開けられた扉から中に入り、机の上にドサっと書類を置くと、イルカはそのまま小さく笑い出した。誰も居ないことを知ると、声をだして笑った。
 自分の態度も、あの人が嫌な返事を想像してなさそうな所も何もかも可笑しくてたまらなかった。
「あーあ」
 気づかなかった自分が間抜けでたまらない。もう1つ返事を返してしまったようなものではないか。
 男の自分がバレンタインに貰ったものも、ホワイトデーのことも何も茶化さない。あの人は言葉じゃなく態度で示したから、自分も返事は態度で示さないといけなかったのに。
「………」
 顔が、熱かった。緊張なのか、嬉しかったからなのか。だけれど受付で感じていた無意味と思える熱さではなかった。
「帰ろ」
 イルカは呟いて立ち上がる。顔を振って、何事もなかったかのようなフリをする。誰もいない廊下はいつも通る場所なのに、初めて踏み込む場所のように未知な感覚が詰まっていた。