今は私の生徒です、というと目の前に立っていたイルカは物凄い瞳でカカシを睨みつけた。
(痛くも何ともないよ。そんな瞳じゃ)
だからカカシは悠然とただイルカの前で、その瞳を見つめていた。
「ちょっと」
「んー」
「何よさっきのあれ」
「何のこと」
ソファに座って本を読んでいれば、紅が少し不機嫌そうな顔でやってきた。 カカシは本から視線をあげなかったが、紅は全く気にしたそぶりは無く、ただため息をついた。
「だって、あんなに仲良くしてたのに。いきなりあれじゃあ、あの人可哀想じゃない」
「何が」
「あんたらしくないわね」
「んー」
「そのわざと惚ける態度」
「………。別に」
「ふーん」
呟いた紅の視線を全身に感じる。それに諦めてしょうがなく本を閉じた。
何故か女は、ちょっとした違いにとても敏感だ。それは、カカシが任務のときに気を張ったり、注意力を払い感じ取るものとは何か違う。内面に関する部分には、まるで男に無い能力を授かっているのではないかと思えるくらいだ。
「仲良くしたかったんでしょ」
「うん」
「珍しくあんたから」
「うん」
「で、仲良くなったらいらなくなって縁切りっていうの?」
「んー、それは違うかなぁ」
ソファの背にドサリと音を立てて寄りかかる。
「……まぁ」
「……まぁ?」
「………。なんでもない」
「……あんたねぇ」
一体どこのガキよ、と紅は怒ったように言うが、紅はとても面倒見がいい。
珍しくカカシから、空いてる時間を見て声をかけて、飲みに行ってと懇意にしていた人間を切り捨てるようにした行動を見ていられないのだろう。
普段の仕事は殺戮や血がつきまとう。だからこそ、余計に仲間を大切にする。反対に仲間を大切にしない奴はカカシ自身とても嫌いだ。それは多分、目の前にいる紅も、アスマも同じ事だ。
「まぁなんとかなるでしょ。俺、それなりに幸せだし」
「…あんたがよくても相手が違うのよ」
呟く紅は苦笑いだった。怒っているわけじゃないらしい。
その違いがよく分からず、でももういいやと立ち上がると、代わりに紅がソファに座り込んだ。
ごめんね、と意味も無く口の中で謝って外に出れば、いやになるほど天気が良かった。まぶしくて背中を少し丸めると、すぐに視線を感じた。
顔をあげないでも分かる。この視線はイルカのものだ。
激しく、きつい。あからさまな視線。
それを敢えて感じないふりをして、ゆっくりと歩く。できる限りゆっくりと。不自然に見えない程ゆっくりと。
イルカが自分を見ている。
心の底から、自分だけを、意識している。
「気づいちゃって、ごめんね」
口の中で小さく呟いた。
気づかなければ、仲のいい友達のままでもいれたんだけど。
そう心の中でだけ言いながら、ゆっくりとゆっくりと晴れた空の下を歩いていった。
カカシは痛みを持っている。それはやがて致命傷になるような痛さだ。決して和らぐことはない。不治の病。
じわじわと胸を蝕んできていたが、ずっとそれに気づかなかった。ある日それを認知した瞬間から、激しい痛みとして毎日カカシを襲っている。
仲間は大切だ。
だけれど、特別な、失ったら気が狂いそうになる程大切なものなど、もう持ちたくなかった。
失うこと、無くすこと、壊してしまうこと。
そんなことばかりが頭の中をぐるぐると回り、体中に痛みを与える。
この胸に咲いた思いは、痛みを呼び寄せ、カカシはその痛みと戦い、日々を過ごしている。
「イルカ先生は」
もう消え去った気配に向かって小さく呼びかける。
「俺を、好きにならないで」
うぬぼれでは無く、互いを特別に思う日は近かったかもしれない。それは、未来として見え隠れしていた。
それを手にしてしまえば、きっともう自分は。
この甘い花すら枯らし、ただ痛みを全身に留めることしか出来なかっただろう。そんな生活しか、思いつかない。
(悲しい程に、未来が無いよ)
呟いてカカシはそっと思い出す。
イルカの瞳を思い出す。
心を占めるあの瞳を思い出す。
暖かく穏やかな瞳ではなくなった、怒りに近い視線を感じたことを思い出す。
相変わらず全身が痛いけれど、たまに更に酷くなるけれど、でも微かに甘味を持ってきてくれる。
だから、多分まだ生きていける。
こんなにも痛くて死にそうなのに。