「あなた、俺のこと好きなんでしょう」
アカデミーの廊下で、すれ違おうとした瞬間、まるで天気の話をするような気軽さで男は言った。
「……は?」
「まぁどうでもいいですけど」
淡々とした表情。冷めた目。
そのまま男はふい、と背を向けて本来向かうべき方向に歩いていく。
その姿が、高く結ばれた黒い髪が、完全に見えなくなったころ、ようやくはたけカカシは己が、あの顔を知っているだけのろくに会話もしたことがない男に何を言われたのか理解する。
(好き?誰が誰を)
「何それ。ありえないでしょ。ちょっと!ねぇっ」
だが、叫んだところでもうその言葉を聞くものは誰も居なかった。
簡単な子ども達との任務を終え、カカシはゆっくりと受付所へと向かった。
受付所には、間違いなくイルカが居るだろう。
うみのイルカ。
ナルトを通して名前を得た男で、受付要員、アカデミー教師。それが現時点のはたけカカシが知っている全てだった。また、アスマ達に聞いたところ、受付の対応がとてもよく無駄がないといっていた。
(嘘だぁ)
だが、カカシはそれを聞いて驚いた。
なぜなら、あの男は自分の前ではとてもむっつりとしているからだ。
(けど、昔は……そういや、笑ってたかもしれないけど)
朧な記憶を辿ってみるが、それはある意味どうでもいい記憶だ。今までそんな態度なんて気にしたことすらなかった。
重要なのは、カカシにとってうみのイルカとは、そんな程度の男だということなのだ。
なのに、今朝のあの言葉。
どうでもいい、とまで言われてなのに告げられたあの言葉。
「ありえん……」
何度思い出してもカカシは頭を抱えたくなる。何故自分が男に。それもあの男に。
もはや意味を成さないような、『なんで』な悩みがカカシの頭を駆け巡る。
「邪魔ですよ」
本当に蹲っていると、目の前で誰かが止まった。
気配は感じていたが、広い通路だ。よけて通られると思ったのに、わざわざその人物は目の前で足を止めて自分に「どけ」と告げていた。
通路で本当にしゃがみこんでいたカカシの方が悪いのは当然だが、男の言い方に少しカカシもカチンとくる。だが、顔をあけて文句は全部吹き飛んだ。
立っていたのは、イルカだった。
「イ、イルカ先生…」
「はい」
イルカは相変わらず無表情の冷めた顔をしていた。
これが見慣れた表情だ。どこが「いい笑顔をしている」男だというのだろうか。
「用はないんですか?なら呼ばないでくださいよ」
「…すみません」
怒ってもいい。
なのに、男の言い草にカカシは思わず素直に謝ってしまった。
それはカカシ自身でもよく分からない反応だった。
(何故)
疑問に首をかしげる前に、カカシはふとイルカの瞳がまっすぐに自分を見ていることに気づく。
真っ黒い瞳。
深い、夜の闇のような瞳。
(あれ)
この黒い色を自分は知っている。
ふと、そう思った。
葉が擦れる音、闇夜、男の―――怒鳴り声。
『何をやってるんですかっ』
それは、いつ聞いたものだったか。
『怪我をしてるのに、なんでそんな無茶をするんですか!あんた馬鹿か!』
大量の血。
(それは、そうだ。俺の血だ。……藤狭間の戦いのときだ)
戦いで傷つくものは人数が少ないほうがいいに決まっている。長く続いた戦いに、皆が疲労しきっていた。だから自分は囮と、そしてその敵の始末を引き受けた。死ぬかもしれないとは少し思ったが、逃げる本隊は間違いなく自分より弱い。それなら自分がここで踏ん張るしかないと思っていた。
が。
どれくらい戦った頃だろうか。
カカシはとうとう力尽きて倒れた。だが敵に見つかるよりも先に、カカシはその怒鳴り声の男とであったのだ。
(そうだ)
血まみれになりつつ、謝させられた。
そしてその男に、命を救われた。守られた。
その男は、確か目の前の男のような深い黒い瞳を。怒りの中にも暖かさを持った声を。
「え」
イルカの小さな声が耳に聞こえた。
(そうだ。この声だ)
気づいたら、声が聞きたくてか顔が近づいていっていた。目の前に、本当わずかな指一本分もあいていない距離にイルカの顔が、唇がある。
思わず、その唇にちゅっと音を立てて口付ける。
そのままぺろりとイルカの唇を舐めて離れると、イルカは呆然と自分を見ていた。
「な…っ、な!!!!」
イルカは顔を赤くさせ、怒りと混乱のあまり声がろくに出ないようだった。
そのイルカを見て、カカシも自分が一体何をしてしまったのか気づく。
「な、何するんだっ!あんた!」
「す、すみませんっ」
条件反射で思わず謝ってしまう。
「こっの、変態!」
「変態じゃないですよ」
「じゃあ何だって言うんだ!」
何だって言うんだ。といわれれば。
(変態じゃなくて、俺はただ――)
「せっかく、イルカ先生の唇が目の前にあったので」
言った瞬間、思い切り頬を殴られた。
「出直して来い」
イルカはギロリとカカシを睨む。
だが、イルカはまたまっすぐにカカシを見つめてくる。その瞳からカカシは目をそらすことができず、殴られた頬をさすりながら、じっと見つめた。
「あんた、……お願いですからもうちょっと頭を使って生きてくださいよ」
「はぁ」
「視線もうっとおしいですが、何も言わずこんなことされたら殴られても文句言えませんから」
じっと見つめてくるイルカの顔は何か言いたそうだったが、それよりもカカシはただイルカの顔を見ることに一生懸命だった。
(この人って、こんな顔だったんだっけ)
そう思ってみると、実は自分の記憶の中に沢山この男の顔が残ってることが判明する。遠くから見ているのがほとんどだが、記憶に、風景に、沢山の男の顔が映っている。
だが今は目の前に。
「だから、俺の話を聞けっていってるんだよっ!」
がん、と今度は思い切り足を踏まれるが、カカシは視線をそらせなかった。
(あ)
すみません、とまた素直な言葉が口からでそうになるが、それはかろうじて飲み込まれた。
カカシは今気がついた事実に、うろたえる。
(そうだ)
どうしよう、と思った瞬間、顔に血が上った。
(俺は、本当にこの男が好きだったんだ)
思った瞬間、居ても立ってもいられなくなりカカシはその場から逃げ出した。こんなときだけ上忍でよかったと思いながら、全力でその場から姿を消した。
そして同時に。
今までの静かな気持ちですごせる日常は、どこか遠くへ消えていってしまっていた。
「ちっ。逃げたか」
イルカは完全に気配を絶ったカカシに、舌打ちをしながら呟いた。
男が自分に何らかの興味を持っていることは知っていた。それを、どうにか告白までもっていけないかと思って、その興味を育てるようにわざと視界に入ったり自然に近寄ったりしてみたが、あまりの効果のなさに、とうとう揺さぶりをかけてしまった。
そして、多分男が自分に持っている興味は、自分が喜ぶ種のものだと確信する。
「あーもう、さっさと告れよ」
イルカは苛々と呟きつつ、でも付き合うからには告白されたいと妙な拘りに呟きながら、明日は絶対言わせてやると、妙な闘志を燃やしていた。