この世界で唯一つ 


 『木の葉の里』として受けた打撃は、九尾の戦いの時以上だと言われていた。それはあくまでも、里の中身――人に対する害ではなく、里自体に対する被害でだ。
 ペインの技、その後の戦いで里はほぼ一度全壊したといっても過言ではない。これだけの被害は、木の葉の里が始まって初のことだ。ただ、五代目火影綱手の英断により、それを復興する里の住民達はほとんどが生存し、元気に過ごせていた。復興は恐ろしく早いスピードで進み、九尾の時と違い、住民達のその顔には活力が満ちている。本当に大切なものはほとんど失っていない。九尾の戦を体験しているものにとっては、それがとても強い活力となった。
 全ての忍が任務の傍ら、復興に積極的に参加している。イルカも当然その一人だ。イルカは敢えて外の任務を受けることをやめ、内部の仕組みを復活させることに力を注いでいる。そして、それでも更に時間が空けば、許す限りは住居等の建築に力を貸していた。
(健康で、動ける体でいること)
 それが健全な精神を持ち続けるために必要なことだ。
(そのための食事、そして睡眠。その基盤となる住居――)
 イルカは受付所を出て大通りをまっすぐと歩いている。少しずつ住居は形を成してきていた。敢えて過去の風景は思い出さずに、少しずつ暑くなってきている日差しを受けながら、イルカは歩き続ける。
(ただ、それはあくまで一般論だ)
 行き先は、自宅でも、指令拠点でも無い。イルカは里の門から外に出て、少ししたところですっと森の中へと姿を消した。
 印を切り、現れた道にもぐりこむ。
「失礼します」
 聞こえないと分かっていたが、一度その入り口で頭を下げる。それから、少しひんやりとしている空気の中、とても静かな道を歩き続ける。この場所は厳重な結界で守られており、里のほとんどの人間はこの場所のことを知らない。
 本来であれば、火影が姿を隠すための一拠点として、代々受け継がれてきていた極秘情報らしいが、今は別のためにこの場所は使用されていた。
 少し進むと、しっかりとした造りの家が見える。イルカは心なしか足を速め、入り口で再度声をかけた。
「うみのイルカ、入ります」
 返事が無いことは分かっていた。家の中は、外と同じように物音一つしない。持ってきていた荷物を適当な場所に置き、イルカはこの家にいる人物を探す。布団を敷いている部屋には姿がなかった。
 そのまま奥にすすむと、少し風を感じた。
「こちらでしたか」
 たどり着いた場所は、庭に面した部屋だった。障子は全て開け放たれており、その柱によりかかるようにして、縁側との境目に一人の男がよりかかっていた。
「…そんな薄着では、体が冷えてしまいますよ」
 薄い着物一枚でいる男に、イルカはそっと声をかける。近づいても、男は動く気配を見せなかった。イルカは隣の部屋で羽織るものを探し、それを持ってくる。男に差し出してもそれを自ら羽織ることはないと分かっていたため、肩を後ろから軽く押し、空いた隙間にさっと持ってきた上着を羽織らせた。
「体が、冷えてしまいましたね」
 イルカは静かに呟く。
 少し触れた体は、どれだけ男がここに座り込んでいたのか分からないが、とても冷えているように感じられた。
 ふと、男の顔がイルカの方を見た。目があったような気がしたのはたった一瞬で、男の瞳はいつものように意思の見えない、深い暗い色をしていた。
「カカシ先生…」
 呟いた声は、未だに掠れてしまう。イルカはそれを堪えるように、口を引き結んだ。
 ペインとの戦いが、全ての戦いが終わってから二ヶ月は経つ。
 カカシはペインとの戦いで傷つき、そしてそれ以来その意識が目覚めることがなかった。瓦礫に埋もれたまま戦闘をこなし、里の英雄としてこの世から消えたのだ――その意識だけが。
『…間に合わなかった』
 疲れたように綱手が話していた姿は今でも覚えている。
(それでも、こうして、生きていることだけでも、喜ぶべきなのだ)
 イルカはカカシの側にしゃがみこむ。少しだけ離れた場所から、じっとカカシの姿を見た。
 元からつかみどころがなく、普段は敢えて忍らしい姿を見せない人だった。それでも、今のこの気配の無さは、忍として消されているものではなく、ただ『はたけカカシ』が本当にこの場に居ないことを教えるだけのものだ。姿はあっても、『はたけカカシ』はこの世にはいない。
「……」
 イルカは、カカシと本来ならなんの関係もない人間だった。
 生徒を介した程度の知り合い。はたけカカシは有名人だったが、自分はごく普通の中忍で、はたけカカシと絡むような仕事も何もなかった。
 きっかけは、多分イルカが、任務外で声をかけたことだ。
 挨拶をするまで、イルカは気がつかなかったが、カカシは気配を自然に消すのが上手い。気づいてみれば、いたるところでカカシは寝ていた。だがその気配が自然すぎて、まるで木がそこに立っているように、誰も気がつかないのだ。気づいたところで、里の誉れに何かを言う勇気があるものは少ない。
 それでも、イルカは気になったのだ。何故なら、もう日が沈もうとしている時間だったのだ。それなのに、草むらで昼寝をされているのはどうにもよくない気がした。
「あの、カカシ先生」
 控えめに声をかけたが、最初カカシは反応しなかった。
「カカシ先生、カカシ先生」
 強く呼んでも返答がない。
 しょうがなくイルカは、同僚達にするように、肩を軽くゆするように手をかけた。
「っ!」
 突然飛び起きられ、驚いたのはイルカだ。しかしカカシ自身目を丸く見開いてイルカのことを見つめていた。
「び、びっくりした…」
「ええ、俺も驚きました」
「あ、そ、うですよね。申し訳ありません、触れるのはよくないかと思ったのですが――もう夕刻ですので、このままここで寝られるのはあまりよくないのではと…」
 イルカはカカシの視線を感じ、幾分緊張したまま考えていた通りの言葉を発した。だが、カカシからは何の反応も無い。
 思わず伺うようにカカシを見る。やはりカカシは邪魔されたくなかったのだろうか。
「俺?」
「え」
「あなた、俺を、起こしたの?」
「はい」
「そんな理由で?」
「はぁ。そうです、けど…」
 カカシはその後、はっきりと何かイルカに告げることはなく姿を消した。ただ、それは起こしたことを否定されるようなものではなかった。
 だから、たまにイルカはカカシを見かけると、その状況により声をかけた。
 カカシは何故かいつも外で睡眠を取っている。それほど過酷な任務が続いているのか、何か取らざるを得ない理由があるのか。一介の中忍であるイルカには理由は分からないが、見かねるときだけ声をかけた。それは、イルカにとってごく普通のことだったからだ。
(そう、普通のことだったんだ――)
 イルカは一度目を瞑り、光のない瞳をしている今のカカシを見る。
 イルカは何かを言おうと口をひらきかけ、口を閉じた。言葉は出ない。いつもそうだ。
 こうして何度もカカシに会いに来るのに、それでも何も言葉は出てこない。
 食事を作ろうか、それとも掃除をしようか。するべきことも沢山あったはずだが、イルカは何もする気がおきなかった。ただ、カカシの真横から同じ細い柱に寄りかかる。
 イルカ自身毎日、数時間の睡眠で生活をしてい、かなり体力は削られている。それでも、ゆっくりとした生活をするよりははるかにましだった。
「……あんたは、どこにいるんだよ……」
 搾り出すような、小さな声だった。
 イルカはカカシと全く違う人間だ。カカシがどんな環境にいたのか、想像することもできない。それでも、カカシの生活が、一般的なものとはいえないことだけは、よく分かる。
 イルカはカカシのことが嫌いだった。
 声をかけ、挨拶をしつつも、イルカからすれば、何もかも手に入れているのに、どこか遠くに、自ら霞もうとしているカカシのことが気に入らなかった。
(それでも俺は)
 声をかけていた。そしてこの状態になって気づく。
(気に入らなかったのは)
 カカシ自身ではなく、霞もうとしているカカシだったのだ。
 瞼の裏が急激に熱くなる。体の奥底から何かがこみあげる。
『あのね』
 カカシの淡々とした、抑揚の無い声。それが、もっとも彼が彼自身に近いときの声だと、受付所にいたからこそ分かった。
『俺は、こうなってみてわかったことがあるんだ』
 瞼が重くて動かない。何かが瞼の隙間からから溢れ出る。
『幸せも不幸も、俺は知っていた。遠くから、見ていただけなのに俺も知っていたんだよ』
 毎晩夢を見る。
 カカシの夢だ。カカシが暗い場所で、誰かとただ静かに話をしている。子供の頃からの話を少しずつ。イルカの知らないその話たちは、まるで本当のカカシ自身の話にしか思えない。
 火の向こうは、寒気がするほどの暗闇で、一歩でもそっちにいってしまえば、何か悪いことが起きる予感がする。それでも今はただ、カカシはその火の側で、誰かに向かってひたすら話をしていた。
 いつも夢はそこから始まり、そこで終わる。
 死んだ親友の話。譲り受けた写輪眼。守りきれなかった仲間。助けられた仲間。里を守るということ。九尾の子供の成長。
 昨日見た夢で、カカシはイルカのことを初めて口にした。夢の中のカカシはポツポツとだが、よく喋った。最初は違和感があったが、沢山話を聞くうちに、カカシはあえて喋らないようにしていたのだと知る。
 自分のことを。自分の意思を。自分の言葉を。
 彼は、彼の人生をほとんど親友に捧げていたのだ。自分のために、命を失った親友のために。
『俺にね、声をかけてきた人がいたんだ』
『外から、ずっと見ていたつもりだったのに、ある日いきなり声をかけられて――情けないけれど、俺は本当に、あいつが死んでから今までの間で一番、驚いた』
 カカシはもう一度呟いていた。
『俺にね、声をかけてきたんだ』
「……っ」
 イルカは片手で目を押さえる。
 何故カカシは目覚めない。何故カカシはここにいない。
 何故自分はカカシと話をしなかった。嫌いだと思う所を、ぶつけて、喧嘩になってでもいいからとにかく話をすればよかった。
 戻ってきたならば、とにかく沢山の話をしたい。今の夢のように、カカシの生い立ちをゆっくりと自分だって聞いてみたい。
「カカシ先生……」
 イルカの手に、ふと少し冷たい、だが自分以外の体温が重なった。驚いてイルカは顔をあげる。隣のカカシはまだ違うところをみていたが、その手は確かに自分の手と重なっていた。
 イルカは堪えきれず涙が零れ落ちた。
 止まらず、とめどなく零れ落ちていく。
「何もかも、あんたのもんですよ」
 この世界にあるものは全て。
 幸せも不幸も。何もかも、親友のものではなく、はたけカカシのものだ。
「何もかも、あんたのものだから…帰ってきてください。早く、早く…っ」
 毎日眠るのが怖い。
 あの火が消えてしまわないか。話し相手が消えてしまわないか。カカシの話が終わってしまわないか。
 重なった手は、少しだけ暖かい。
 イルカの涙は全く止まる気配が見えなかった。それでも決して、その手だけは動かさなかった。重なった手の、ほのかな温かみは、まるであの冷えた闇の中で、唯一の明かりとなっている小さな火のようで、イルカの唯一にして最大の希望のように思えたのだ。
 綱手も、紅も。カカシの本当の性格や、その生い立ちのさわりを知っている人間は、誰もがカカシに生きて欲しいと、幸せになってほしいと思っている。その期待を背負うように、イルカは可能な限りここに来る。
(カカシ先生)
 俺は、あの夢に登場することはできないのだろうか。
 イルカは初めてそんなことを考える。絶対に無理だと分かっているが、それでもそう願いながら、掌のほのかな温かさをただずっと感じていた。




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