まさかの話 中編 1 


 忍の世界には、なんでもある。
 その言葉通り、男の言うことは事実で、男は確かに『この場から出れない』ようだった。左の森に消えると、右の森から戻ってくる。どんなに、どの方向に歩いても、この場に戻ってくる仕組みになっているようだった。
 もしかしたら男が自分をだましているのかもしれないが、自分をわざわざだますメリットなど何もない。
(あるとすれば、洗脳…)
 しかし、洗脳するにしても、敢えてこんなに時間をかける必要はない。
 イルカはそこまで考えて、その裏を読む考えは一度捨てた。どちらにしろ、自分は動くことのできないのだ。
「幻術…とは違いますよね?」
「そんなのだったら、俺がすぐに分かってます」
 切り捨てるように言われ、イルカは一瞬考える。
「『俺がすぐに分からない』パターンとしては、どんなものがあるんですか?」
「……あんた、いい性格してるね」
 どうやら言い方を間違えたらしい。
「え、あれ? 失礼しました?」
「疑問形かよ」
「あ、失礼しました」
 再び男は脱力したようだ。
(ピリピリしてるよなぁ)
 イルカはふと自分の胸ポケットに、配給されていた携帯食がそのまま残っていることに気付いた。
(死んでたら、こいつを食うどころじゃなかったけど…)
 でも自分は生きていた。
 全身汚れているが生きていた。目の前の男も、全身薄汚れているが、どこかその姿をイルカは見たことがある気がした。
(だからだろうか)
 どこかこの男には警戒心を抱き難い。
 男自身は苛立っているようだが、その苛立ちがイルカに移ることもない。むしろ、どこかこの目の前の男が心配になるくらいだ。
(俺の方が、死に掛けてたってのになぁ)
 我ながらのんきなことだと思う。
「これ、食べますか?」
「……ガキですか、俺は」
「でも、一緒にに食べましょうよ」
 男の前で一口かじり、半分を男に投げる。干し肉のようなものを、匂いが出ないように包装しているものだ。
「これ、家でくっても美味いんですよね」
「こんなもんを?」
 男は受け取ったものの、食べる気はなさそうだった。
「食べますよ。安くて美味いんですよ! これで雑炊作ってもけっこういけるんですから」
「戦場の味」
「戦場だろうが、どこだろうが、食い物は食い物です」
「……」
「兵糧丸よりは安いですし」
 イルカは呟いて笑う。
 昔のことだ。風邪を引いで、死にそうな高熱にうなされ、家に居ながらも食料がなく、かなり危ない状態になったことがあった。その時、自分の給料では高級だった兵糧丸を食べることができなかった。
 それで死んだら元も子もないと、夢の中で怒られた経験がある。懐かしい。けれど、忘れられない大切な記憶だ。
 ポツリ、と顔に何かがあたった。
 空を見ると、雨がちょうど降り始めたようだ。一気に雨足は強くなる。
「そこに居たら、ぬれますよ」
 男は迷ったようだが、いやいやながらイルカのよりかかる木の隣に座りなおした。
 雨に少しうたれたせいで、男の髪から雫が落ちる。どうやら男は、かなり戦場の埃に塗れていたようだった。
 落ちる雫は黒っぽい色をしていた。
「は?」
 男が、イルカを見て驚いた顔をする。イルカは疑問に思った数秒後に理解する。
 何故か、自分の目から涙が零れ落ちていた。



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