なつの体温 


 生暖かい風が頬を掠める。昨晩はじっとしているだけでも汗が吹き出そうな温度だった。今年に入って一番の気温だと誰かが言っていたかもしれない。
 今日はそこまではいかないが、それでも十分過ぎるほど暑い。涼しい格好をして、川辺でも散歩をして過ごしたいと誰もが思いそうな日だった。
 イルカの額にも汗が浮かぶ。だがそれでもイルカは身動き一つしないで、目の前のベットを見つめていた。そこには男が寝ている。
 その男は汗一つかかず、指一本動かさず静かに眠りについていた。白い病室の中、開けられた窓から入るセミの声が室内で唯一の音となっている。
『あ。おい。カカシ上忍の任務は取消だろ』
『わりぃ。連絡回ってたよな。あーじゃあこれも、こっちも調整か…』
 イルカがそんな会話を聞いたのはたまたまだった。
 男達の言葉から、イルカは担当外の連絡掲示を確認しに行き、そこでイルカは『はたけカカシが病院に居る』ことを知った。
 昼休みを抜け出てきたため、外の日差しはまだ強い。カーテンである程度遮られているが、それでも光が室内に届く。その光はイルカの背中に当たり、イルカの体温をゆっくりと上げていく。
 ミーンミーン。
 セミの鳴く声が頭に響く。
「…いつまで寝てるんですか」
 暫く黙っていたせいか、呟いた声が喉にはりつく。
 薬で眠っていると、病室に入る前に担当の医療忍が言っていた。いつもなら、ここまで近づけばカカシの目は覚める。一緒に居る時間が長くなれば長くなるほど、味覚のことだけでは無く、カカシが『生活』に向かない男だということを痛感させられる。
 カカシの指がトン、と自分の眉間に触れたのは今回の任務の出発前だ。
「皺」
「…別に寄ってません」
「そ」
 それから男は手袋を着け、静かに準備を進めた。イルカはじっとその様子を見る。
 夏だというのに触れてきた指は冷たい。それについて何か言おうかと思ったが、言葉が上手く出ない。
『夏場にはいいですね』
『なんですか、この冷たさはっ』
 言葉が一瞬のうちに幾つか浮かんで、全て消える。最近は、こうしてイルカの体の中で言葉が詰まり、カカシにぶつけることの出来ない言葉が増えてきていた。
 ただ体温が低いだけかもしれない。だが、もしかしたら味覚と同じように、酷使した体が壊れてきているのかもしれない。
(温度は分かると、言っていたのに)
「体温――低すぎませんか」
 搾り出した声に、カカシはなんでも無いようにイルカを見る。
「ああ、任務前は低く設定しているから」
 口調からすると、それはカカシにとっては『当然のこと』のようだった。
 イルカが『ただいま』と言い、『頂きます』と言い、何かを味わい何かを感じ、電気を消し、寒さから身を守ることが自然のように、男にとって自然なことはあまりにも自分の生活と、そして多分一般的な『生活』からも離れている。
「何か、食べていきますか」
 違いを理解していても、それでもイルカはいつも同じ言葉を問い掛ける。
「どちらでも」
「……準備します」
 カカシは何を美味しいと思うのか。美味しいという感覚を持ったこと自体あるのだろうか。
 その日は結局簡単に作れる野菜炒めと焼き魚を食べた気がする。カカシは仕度を済ませたにも関らず、わざわざ手袋を一度外し箸を持った。
 その姿が妙に印象に残っている。
「失礼します」
 病室の扉が開き、同時に声をかけられる。
「はい」
 イルカは意識を戻すが、視線はカカシに向けたまま返事をし立ち上がった。表情の無い顔をした医療忍はじっとイルカを見る。
「また、来てもいいでしょうか?」
「何か用が?」
 言葉に詰まった。
 用は無い。咄嗟に同居人、と答えそうになりその言葉を飲み込んだ。
 カカシと自分の関係は、そう言い切って良いのかも分からない程あやふやなものだ。カカシが帰ってこなければ終る同居。
「…別に構いませんが」
 返事に詰まったイルカに医療忍は興味が無さそうに返す。男は、ただイルカに『早くこの病室から出て行って欲しい』というような口調だった。
 イルカは病院の廊下をゆっくりと歩く。ミーンミーンとセミの鳴き声がまだ聞こえる。どこの部屋からも人の声は聞こえない。プレートを見ると、ほとんどが空室になっていた。カカシが入っている病室なのだから、きっと何らかの事情がある患者専用の区間なんだろうかと歩きながら思う。
 医療忍と何人かすれ違い待合室についた途端、わっと沢山の人の存在が現われ一瞬軽く眩暈がする。
「ほら、泣かないの!」
「今診てもらえるからね。もうちょっと我慢するんだよ」
 イルカは暫くその場に立ち尽くしたまま、ただ待合室の光景を見つめていた。


NEXT