春のねつ 


 風から寒さが消え、木々に緑が色づき始めた頃、イルカは考え事をする機会が増えたように思う。意識的に何かを考える、というよりも気づけばいつも同じ考えに、結論が出せない問いにはまっている。流れる雲を見て、行き交う人々を見て、何もない空間を見て手を、動きを止めてしまう。
「お前、まだカカシさんと暮らしているのか」
 この日も、同僚の言葉にイルカは我に返り、はっとして顔をあげた。
 同僚らは、イルカの家にカカシがいることを知っている。カカシが倒れた話も、それ以降イルカがカカシの世話を焼いていることも知っている。
 ある意味、それは有名な話だった。
 だが、同僚らの瞳は好奇ではなく、同情に近いような色をもっている。相手は上忍。無理矢理面倒を見させられていると、周囲では思われていたためそれは当然のことだった。
「ああ」
 そっけない口調で答えると、同僚は何か他に言いたそうな顔をしつつも口をつぐむ。
(どうでも、いいだろ)
 自分が誰と住もうが。いや、はたけカカシが誰と住もうが。
「あんな人と側にいたら、毎日憂鬱になりそうだよなぁ。緊張でガチガチになるか」
「あんがい刺激されて成長するかもしれないぜ。あんな人と一緒にいる機会なんて滅多なことじゃないだろ」
 同僚の話題を元に、周囲の人間が話をし始める。
(ちくしょう)
 イルカは黙って書類をそろえる。
 極力いつも通りの顔を作り、何でも無いように、何も気にしていないように書類をそろえる。
 同僚らの中には、印を組めない手になってしまったものも居れば、筋を痛め早く走れなくなったものもいる。精神的に一度崩壊した者も居れば、体中傷だらけのものも居る。
 イルカは、ただ口を閉ざす。
(あの人は)
 一枚、一枚とイルカは書類をゆっくりと同じ速度でただ処理をしていった。



 角を曲がり、自分の住むアパートが見えるとイルカはいつも足を止める。それからゆっくりと、自分の部屋の明かりを確認する。最近、日課となった動作だった。
(真っ暗)
 それでも、今日は多分あの男が帰ってきているだろうと思う。
玄関の前に立ち、ドアノブに手をかける。押し開けると部屋の中から明るい光が自分を出迎えた。
 相変わらず正面の窓は開けられている。ただ一点違うのは、自分が帰ってくるのにあわせて点けられる電気。
 一体いつ気付いてつけているのか。外から部屋を見るときには、間違いなくいつも消えている電気が、自分が扉を開けた瞬間には明々とその存在を主張している。
 その電気をつけた男は、前と同じようにただ窓の側に座っている。その視線は窓の外に注がれており、そんな男を見ていると、扉を開ける前からずっと部屋の電気がついていたような気がしてくる。
「カカシ先生」
 呼びかけると、カカシはゆっくりと振り向いた。
「お帰りなさい」
「……春先とはいえ、まだまだ寒いですよ」
 イルカは窓に近付き、開いていた窓を閉める。
 ふと視界に入ったカカシの指先が酷く白い色をしてい、思わずイルカは手を伸ばした。
 手を掴むと、カカシは僅かに驚いた顔をする。
「あんた、めちゃめちゃ冷たいじゃないですか」
 触れた指先の感触に、イルカは思わず低い声を出した。
(何故、俺はこんな声を出す)
「そ」
「あえてこんなに冷たくなるような動作をしないでください。馬鹿ですか」
 最近分かったことだが、カカシは自分の乱暴な物言いを全く気にしていない。むしろ、どこか楽しそうに聞いている。
 他に分かったことは、秋刀魚が好きだとか、物思いに耽ることが多いとか、でも話しかけると必ず返答してくれるとか。その程度のことだ。
 カカシが、実際に何を、どんなことを考えているのかは、イルカには未だにさっぱり分からない。
「明日から任務に行って来ます」
「分かりました。晩御飯、食べれますか?」
「どっちでも」
「作ります」
 台所に向かい、冷蔵庫をあける。
(ああ、そうだ)
 一緒に暮して分かったことの一つに、カカシは絶対に料理をしない、ということがある。
 料理をしないし、洗濯も掃除もしない。
 電気も点けないし、寒くても気にしない。
 そして、味も分からないから、食べる物にも頓着しない。
 イルカはガン、と潰しそうな勢いで卵を割った。
(はたけカカシは、生活をしようという意識が無い)
 味覚を感じない体。ただそれだけのことが、そんなにも全ての意識の低下を招くのだろうか。それとも逆で、味覚を失ってしまうような生活だったからこそ、こうなってしまったのだろうか。
「ねぇ」
「はいっ」
 話し掛けられたことに驚いて振り向けば、至近距離にカカシの顔があった。
「あんたさ、そんな風に生きていて、楽しい?」
 穏やかな声。だけれど、内容としては蔑まれているのか、貶められているのか、それともただ純粋な疑問なのか。全く分からなかった。
「俺が、ですか?」
「そ」
 自分がカカシに問うのではなく、カカシが自分にこんなことを聞いてくるとは思っていなかった。五体満足で、味覚も正常で、そこそこで、それなりの生活をしている自分に。
 イルカはひたすらカカシを見つめ、心臓は動揺でうるさくなり、頭の中はただ混乱した。そんな風に答えに詰まっていると、じゅわっと嫌な音がフライパンから響きイルカは慌てて火を止める。
 その間にカカシの姿は台所から消え、返答することは出来なくなってしまった。




『そんな風に』
 それは一体どんな風なのか。それを考えて、一週間が過ぎた。カカシが帰ってくるまでに答えを出したいとあれこれ考えていたが、上手い答えは見つからないままだった。
「せっかくはたけ上忍が居ないだしよ、飲みに行こうぜ」
 答えが出ないうちは付き合えないと思い断ると、同僚は残念そうな顔をした。同僚らは基本的には優しい。それは十分分かっている。
「この報告書の判断、すごいよな」
 仕事に戻った同僚が、資料をめくりながらボソリと呟く。
「やっぱりあの人は天才だよ。だから、今回も誘いがかかったんだろ」
「そりゃ、うちの里であの技が使えるとなると…」
 話始めたはたけカカシの話題に、イルカはペンをきつく掴んだ。
(うるさい)
 同僚らが優しいのも分かっている。だが、同僚らは、何故こんなにもしょっちゅうカカシの話題を口にするのか。
 そして、何故気付かないのか。
「俺達じゃ声はかからねぇな。一生」
(そうだ)
 きっと一生。
 俺が、いつまでも黙っている限り、自分よりも酷く辛い経歴を持っていたとしても、彼らはずっと気づかない。
「あの人は、一生そんな任務ばっかりかよ」
「え?」
 イルカは立ち上がる。同僚らが驚いた顔をしている。
 その顔を見て、きっとあの日。カカシが自分に答えを、話をしてくれたとき、自分はこんな顔をしていたのではないかと思った。
「あの人は、一生そんな任務ばかり指名されるんだ」
「イルカ?」
「落ち着けって。あの人なら大丈夫だろ」
「大丈夫じゃねぇよっっ!」
 がん、と叩いた机が思い切りへこんだ。
 窓からふわりと暖かい風が入る。イルカはその感触に我にかえった。
「…わりぃ」
 呟いて、背を向けた。
 廊下を歩く。人とすれ違う。確かに全てを自分が行っているというのに、感覚が酷く遠い。
 なんだろうなんだろう、と思う。
 職員室の自分の席にどさっと座り、側にある窓へ手を伸ばして少しだけ開ける。
 机の上には朝入れた冷めたお茶が置かれている。無意識にそれに手を伸ばし、一口飲んだ。
「っ!」
 生徒の悪戯だった。
 茶の中に、飴が入れられたのか妙な甘さがしている。気持ちの悪い味だ。
(木の葉丸だな)
 予想はすぐつく。怒りにいってもよかったが、イルカはそれをせずその不味い茶を一気に飲んだ。
(まずい)
 心からそう思う。窓の隙間から風がふき、イルカの頬にあたる。
 涙が体の奥底から溢れ出してくる。
(あの人は)
 きっとこれをなんともないと、飲むのだろう。
 その辛さは、きっと一生自分には理解できない。理解しないといけないものではない。
 なのに、何故かこんなにも苦しい。同僚に怒鳴ってしまう程、自分はおかしくなっている。
 イルカは腕で顔を擦り、そっと窓から外へ出た。地上に飛び降りる。芽吹いてきている木を見上げながら、イルカは逃げるように走った。何から逃げているのか。誰から逃げているのか。
 人気の無い裏庭まで駆け抜け、イルカはそこに座り込んだ。
 二週間目だ。
 本来の任務予定は五日だった。あと何日、自分は待つのか。
 カカシの問いかけに答えられなかったことを悔やみながら、答えを渡せない可能性におびえながら、あと何日まつのか。
 暖かい風が頬にあたる。
 イルカは誘われるように涙を零す。
(暖かい風は)
 あの男を思い出す。もしかしたら、今ごろ同じように、この暖かさを感じているのだろうか。
『ねぇ』
『なんですか』
『あんた、死なないといいね』
 前に、イルカが任務に行く朝そんなことを言われた。
 こみ上げてくる。とめどなく何かがこみ上げてくる。それを堪えることはもう出来ないと思った。
(俺は)
 何かを思っても、心の中に溜めるような性格ではなかったはずだ。
(俺らしく)
 生きて、そしてあの人を出迎えたい。
『ねェ』
 少しだけ、優しい声で話し掛けてくる。
 それは、傲慢でもなくなんでもなく、自分にだけだとどこかで感じ取っている。
「早く帰って来い……」
 口の中には、不味い茶の味がまだ残っている。
 電気をつけてないなら、いつまでもいつまでも注意をしようと。自分が帰って無くても明かりを点けろと、次回からは絶対に文句を言おうと思った。













こうして段々と、心臓に近い、苦しい程の感情へと変わっていくの。ゆっくりと。