ふゆの温度 


 はたけカカシ、という言葉が耳に入った瞬間イルカは思わず動きを止めた。
 話をしていたのは恐らくその格好からして、外の任務を中心的に受けている忍だ。まだ見た目の年齢も若く、雰囲気から中忍レベルと見える。男達は最近の任務について話をしているようで、そこではたけカカシの名前を出したようだった。
「やっぱりさ、実力が完全に違う人っているよな」
 その声は、はたけカカシを馬鹿にしているものではなく、どちらかというと別格として認め、憧れと羨望、そして多少の苦さを含んだものだった。苦さは自分との実力差から、思わず含まれたものだろうとイルカは推測する。推測が簡単に出来たのは、自分も同じような思いをかつて持っていたことがあったからだ。
「あれだけ強かったらなぁ」
「おいおい、お前それは無茶だろ」
「いいんだよ。望みくらいでっかくもっとくんだって」
 イルカは受付所で、その会話を聞きながらペンを走らせる。その動作は普段通りのもので、誰もイルカを気にしない。
(馬鹿だな)
 イルカは男たちの話を聞いてそう思う。そして同時に人が聞いている場で不用意に人名を出して会話をすることにも呆れてしまう。
 手にした書類の処理を終え、時間を確認する。針はそろそろ目的の時間を指す。イルカは立ち上がり、同僚に先にあがることを告げ外に出た。最近は極力残業の時間を区切るようにしている。
 外は冬の寒さも本格化する時期ということもあり、肌が少し痺れるような気温になっている。イルカは冷気から逃げるかのように、足を早めた。
(強く、何でも出来る人間)
 昔はイルカもそんな人物がいると思っていた。かつての里の英雄達、そして身近なところではそう、受付の側で男たちが話をしていたようなはたけカカシ。過去、男がこなした任務は幾つか伝説になり、イルカもその話を聞き憧れを持ったこともある。豊富な術を扱い、それを処理しきるだけの頭脳を持ち、また強い精神力をも持っている男。
 イルカは走ったせいで少しあがった息で、家の扉の前にたつ。扉を開けると部屋の中から外と同じ温度の風を感じた。部屋の窓が開いているのだ。
「カカシ先生」
 呼びかける。返事は無い。だが窓は開いているし、電気は消えている。
「カカシ先生」
 もう一度呼びかけると、暗闇の中でゆらりと濃い影が揺れた。
「ああ。お帰りなさい」
 銀色の髪。色の薄い肌。
 なんでもないように男は出迎えの言葉を述べる。
「暗くなったら電気くらいつけてください」
「必要ないし」
「俺は、必要あるんです」
「いいじゃない。あんたが帰ってきたらつけるんだから」
 うみのイルカは、はたけカカシが嫌いだった。嫌いになった理由は簡単で、過去正面切って言われた言葉がずっとイルカの中でくすぶっていたのだ。
『私の部下です』
 カカシに偉そうにいわれた瞬間は、本当にカカシが憎かった。当たっている指摘だっただけに本気でどこにぶつけられる訳でもない苛立ちが体の中を駆け巡った。
 だが今は、何故かこうして同じ屋根の下に住んでいる。
「今日は蕎麦でいいですか?」
「何でもいいよ」
「もう年が明けてしまったんですけど…嫌いじゃないなら蕎麦にします」
 カカシは月明かりの下でただじっと座っていた。それは静かにチャクラを練る訓練をしていたのだが、この世にまるで関心が無いというような顔にも見える。イルカはそんなカカシの表情が一番嫌いだった。
 過去、子供の悪戯で食堂の砂糖と塩が間違えられたことがあった。
 そのときの現場にイルカもカカシも偶然だが居た。イルカは一口でその事実に気づいたが、カカシは離れた席でずっと食べ続けていた。騒ぎになっても一人食事を続け、やがて食べ終わったのかその場からふらりと出て行った。
 最初は上忍だから違うものが出たのかと思ったのだ。だが、食堂主はあわてたように、あの席に座っていたのは誰だった?とみなに確認をしていた。料理がからになっていたのは無理をして全部食べたのかと思ったのだ。慌てる主人がかわいそうでイルカはまだ傍にいるだろうとカカシの姿を探し声をかけたところ、カカシは酷くあっさりした声でいったのだ。
「別にいいですよ」
「は?」
「味付けなんて、俺関係ないですし」
「は、あ」
 あまりに真顔で言われてイルカの返答も一瞬詰まる。
「俺、最近味が分からないんですよね。だから、気にしないでっていっといてください」
 いい終えた瞬間、背中を向けられる。イルカは我に返り、慌ててその背中を追う。とんでもないことを聞いた気がしたのだ。
「ちょっ、それは」
 叫んだ後で、無視されると思った。だが、カカシは足を止めて再度イルカを振り返る。目は酷く冷たい。
(違う)
 イルカは自分の感覚を否定した。冷たい訳ではない。そう、あの時のカカシの瞳も、決して冷たかった訳ではない。ただ、酷く静かなのだ。
「何か」
「…味覚を、感じないというのは」
 言い切られた直後で「本当なんですか」と聞くのも間抜けでイルカは口ごもる。
「しょうがないですから」
「え」
「しょうがないんですよ。俺の体、無理をさせてるから」
 あっさり言われすぎた内容は、本当なのかからかわれているだけなのか判断がつかなかった。だが、さっきの味付けを思えば、カカシの味覚は正常とは言い難い。だが、それは間違いなくこうして簡単に話されていいものでは無いはずだった。
 だからイルカはきつい視線でカカシを見返す。男の瞳に負けないように。
「それなら、そんな簡単に話をしてはいけないのでは?」
「だって、イルカ先生は知りたかったんでしょう」
 さらりと言われた内容は、イルカを余計混乱させた。はたけカカシの情報なら、里の極秘事項に入る。
「ああ。でも別に心配はしないでもいいんですよ。今の所大して問題はないですし」
「カカシ先生!」
 イルカは思わず名前を叫んだ。だが、言葉はやはり続かない。カカシは数秒イルカの言葉を待つようにじっと見ていた。イルカはそれを感じ早く何かを口にしなくてはと余計焦るが何も言葉が出てこない。言葉が出ないのなら、カカシはもうすぐにでもこの場を立ち去ってしまうだろう。
「悪くないですよ」
 カカシは、イルカの予想に反し再度言葉をつむいだ。イルカは何故かそれを酷く意外に感じ、カカシはそんなイルカの表情を見て少しだけ微笑んだようだった。口布で隠れた顔はよく分からない。だが、雰囲気で微笑んだように思えたのだ。
「そうなってから毎朝ね。起きると手は動くし、足も動くし、チャクラも練れる。それを妙にね『生きてるんだな』って思うんですよ」
 悪くないよ、ともう一度カカシは呟いてイルカを見る。カカシはそこでようやくイルカに背を向けた。イルカは何も言うことができなかった。前回のように悔しくてではない。本当に何も言葉が見つからなかったのだ。
 『生きてるんだな』の前には『まだ』という言葉が本当は入るのだろう。それを男は悲観しているわけでも無く、卑屈に思うのでもなく、当然のことのように受け入れ、感じることに喜んでいるのだ。
(なんで、俺に)
 本当か嘘かも分からない。ただ、漠然としたものが、すっきりとしない何かだけがイルカの中に残された。
 それから二ヵ月後のことだ。はたけカカシが栄養失調で倒れたのは。
「はい、蕎麦ですよ」
 どん、とイルカはカカシの前にどんぶりを置く。ひとまず天ぷらが好きではないことは聞いていたので、ほうれん草、なると、鶏肉、椎茸を具として乗せた。
 カカシはその前で手を合わせてそれから口布を下げる。そしてずるっと食べ始めた。
「美味しいですか?」
「さぁね」
「こういう時は嘘でも美味しいって言うんですよ」
「じゃあ美味しいね」
「…やっぱり嘘です」
「何それ」
 カカシは僅かにだが、笑ったように思えた。
 どこかで初詣に行くのは夜中だというのに人の話し声が聞こえる。イルカはそれを聞きながら、時間としては遅い蕎麦をすする。
 栄養失調で倒れたと聞いた瞬間、イルカは病院に思わず駆け込んだ。男は兵糧丸を主食にして生活をしていたらしい。それを聞いて、イルカは眠っていたカカシを無理やり起こして家へ来いと怒鳴ったのだ。カカシは数度驚いたように瞬きをして、だが「いいですよ」とあっさり頷いた。
 そして、奇妙な生活が始まっている。
 生活をして分かったことは、あまりカカシは食事に興味が無いということ。そして、任務のとき以外は酷く静かで、あまり生きている気を漂わせないということ。話をすると結構口が悪かったり、しっかりと話すがそれ以外のときは本当に静かな男だった。
 そして、また。
 人前では、特に部下の前では気を使って多く喋っていること、昔は味をちゃんと分かっていたこと、死んでいく体に忍としての能力の低下だけは防ごうと抗っていることなどもイルカは理解した。
「暖かいですね」
 カカシが蕎麦を食べ終えて、ぽつりと言った。
 そうですね、とイルカは言いたかったが妙に切なくて何も言えなかった。温度は、カカシが分かる感覚だった。味の感想の代わりに、カカシが寄越したということは、すぐに分かった。
 カカシが特に悲観していることも無く、前向きに物事を考えていることは知っている。だが、だからこそイルカはたまにこうして苦しくなる。カカシ自身がなんとも思っていないことが、本当にとても苦しくなる。
「今年は、いい年になるといいですね」
「生きていれば、そうなりますよ」
 静かだが、カカシの声は、カカシは優しい。辛口なときも、冷たい言葉も吐くときはあるが、基本的にはとても優しい男だった。
「ひとまず、俺のためにも家に帰ったら今年はちゃんと電気をつけてくださいよ」
 何かを誤魔化すようにそうイルカが言うと、カカシは数度瞬きをし、それから今度ははっきりと楽しそうに口元を緩めた。
「一応、俺は上忍なんだけど」
「上忍だろうと、家に帰れば関係ありませんよ。ここだけは治外法権です」
「そうだね」
 カカシが以外なほどあっさりと頷いて、じゃあそうしますと言った。
「あんたがそういうなら、今年はつけるように気をつけます」
 イルカは蕎麦の残りを一気にかきこんで、どんっと少し乱暴な動作で丼を机に置いた。外ではやっぱりはしゃぐ子供の声がする。二人は会話のないまま暫くそんな声を聞きながら、ただ同じ部屋で動くことも無く座っていた。

 暖かい雫は、零れ落ちそうで零れず、イルカの目の奥でずっと滲んでいた。













新年から微妙な感じですみません…!
一応希望のある、前向きな話なんですよ…!